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僕の法政大学史50 2012年8

10月上旬、ゆとり全共闘とりべるたんの瓦解が始まった。


引き金となったのは、りべるたんを作る際に中心となった3人のうちの1人の脱退だった。
彼は、りべるたんを脱退すること、ゆとり全共闘の運動から距離を取ること、そして別に新たなスペースを作ることを表明した。

個人的には新たに別の場所をつくることは場合によってはいいことだし、それで関係性や運動が拡大するならば積極的にその方針を取った方がいいと思う。しかし、この時は抜ける際の発言や行動でどうしても見過ごせない点があり、論争をすることとなった。大きくは、これまで共の活動を批判というよりは誹謗に近い発言をし、また個人と関係を切ったことが無視できなかった。


もしかしたら、ここを揉めることなく問題を曖昧にしてそれなりの関係を維持すれば、そこまで大きく瓦解することは避けられたかもしれない。でも僕には人生をかけて運動をしたり、あるいは逮捕されたりという後輩がいる中で、そういった分派の仕方はどうしても看過できなかった。この点については恐らく今同じ状況に置かれても同様の対応を取ると思う。いずれにせよ論争を展開したことにより、内部的緊張及びその後の亀裂は拡大してしまったのではないかと思う。






内部的な不和および亀裂の始まりと時同じくして、りべるたんでは隣人との関係も緊張状態に置かれていた。
結論から言うと、この隣人との関係及び対応が瓦解の決定打となった。


隣人とのトラブルの内容はトイレットペーパーを勝手に使ったとか、靴の場所が動いているなどの、どちらかというと些細なものだった。しかし、その注意の際に隣人から包丁を振るわれるというトラブルが一度発生していた。僕たちは隣人とのトラブルを話し合いで解決しようと有志で集ったのだが、その際に再度隣人に包丁で襲い掛かられてしまった。

人生において、人に包丁で襲い掛かられるということはあまり経験しない。
直後に僕たちはどういった対応をすべきかを話し合い、隣人の行動をそれまで情報拡散に使っていたSNS等で公然にするという方針を取った。そしてこの対応が、包丁襲撃時に不在だった一定数から批判を受けた。この事が要因となり二分は決定的となった。




恐らく揉めることになるであろうとわかっていた方針を決定した背景には、このころの内部的な不和も大きな影響を与えていると思う。
すでに抜けた1名はどちらかというと穏健な人で、新たなスペースとしてもりべるたんよりも穏健な場所を志向しており、その志向に近い人を集めていた。一方隣人に立ち向かった僕たちは、どちらかというと武闘派。逮捕・弾圧・隣人トラブル、各種アクシデント、全部受け止めて乗り越えていくというような雰囲気があった。


穏健派か武闘派か、勉強会か直接行動か、弾圧や逮捕を極力避けるか弾圧・逮捕も想定にいれて行動するか…。その境界線で僕たちはピリピリしていた。互いがいて、良いバランスで回っていたはずなのに少しずつバランスが崩れ、いつからか共に回ることがなくなった。そして分派が現実的な選択肢と現れた中で、二分の方向に舵を進めた。



最終的な決定打自体は隣人トラブルという運動とは遠いところにあるものだった。
しかし、このころはそれ以外にも爆発しそうな爆弾がたくさんあったように思う。その中の一つである「隣人トラブル」という爆弾がたまたま最初に爆発した、そういった見方ができるのではないかと思う。当時の緊張や不和の高まりは決して低いものではなく、弾圧との関係、運動の限界、思想の違い、性格の不一致などの積もり積もったものがあった。




ゆとり全共闘結成から約1年、各キャンパスで連携して運動を展開し、100名を超える規模の就活デモも事実上主催した。ドキュメンタリー映画(参考)にもされ、各種イベントにも出演させていただきと、非常に濃く、また可能性のある時間を過ごした。しかし、その可能性は少しずつ現実の中で小さくなっていき、二分によってほぼ途絶えた。


そして僕たちは、完全な窮地に陥った。

僕の法政大学史49 2012年7

7月以降、少しずつ確実に関係性の変化が進んでいった。そして、それは間違いなく良い方向の変化でないことは明らかだった。



7月のデモを終えてしばらくして、中心となった6名のうちの2名がほぼ運動を離れた。またもう1名も精神的に不安定になっており、前線に立つのは難しい状態になっていた。その間、新しい人を運動に加えることもできておらず、身体性を伴う行動に、継続して主体的に動けるであろう人数は3人。集会・デモ・抗議行動などを打つのは難しい状態になっていた。


また、新たに居場所(以下、りべるたん)の運営をめぐって内部的な不和も目立ち始めていた。不和の根源となる問題自体は以前から僕たちの中にあるものであったが、上手くいっていないときというのは、それまで我慢していたことや抱えていた矛盾が表に出やすくなる。話し合いの内容は次第に、「これから何をするか」といった運動や居場所を前進させる内容から、「○○の行為・態度について」など、どちらかというと総括的な側面の強いものへとなっていた。


恐らく僕たち(ゆとり全共闘)の中の多くの人が初めて出会い、集団として活動を開始した2011年ころから、多くの問題を孕んでいたし、関係性の危うさは内在していたと思う。その中で、キャンパスで行動すれば一定人が集まる、デモをやればそれなりに成功する、仲間がどんどん増えていくという好循環が問題を見えなく、また総括をおろそかなままにさせていた。しかし、このころになると根拠のない勢いや自信は完全に削がれていた。


運動における甘い果実のような時間は終わり、モチベーションは低下し、また弾圧も経験した。そして現実的諸問題や関係性内での不和をいかにするかということが主眼の期間に入っていた。その中で、議論というよりは、ケンカや誹謗中傷寄りのものも増えたし、恐らくは僕もそういったことをしたと思う。
こういったことは運動に戻ると決めた時点で、あるいは後輩が逮捕された時点で、ある程度考えられた事態ではあったけれど、実際に直面すると、寂しさや虚しさは少なからずあった。



問題が浮上し、関係性が少しずつ緊迫していきながらも、9月下旬にゆとり全共闘として総会を開くことができた。
そこでの話し合いとして、後期は各大学で原点に帰った行動をしようという方針に至った(参考)。今やれるところから少しずつ頑張ろうと、方針としては堅実なところに落ち着いた。ここから問題と向き合いながら、また通常のモチベーションで、現実的に実行可能なことから少しずつやっていくのがよいだろうと思ったし、またそれ以外に取れる選択肢はなかったのではないかと思う。


しかし、結果としてこの方針はほぼ実行されることはなかった。前期総会から数日経ち、ゆとり全共闘とりべるたんを二分する事件が発生した。
そして、10月が始まった。

僕の法政大学史48 2012年6

残された時間は少ない。
6月に運動に戻った時点で僕はまず「場所の確保」と「具体的行動」という2点をスタートさせた。


場所については、3月までは僕の部屋がその機能を有していたが、家を解約してからというもの、代わりの場所は見つかっていないようにみえた。場所がなければ信頼関係の構築も難しく、関係性も拡大できない、その結果何か行動を起こそうにも多くの人を巻き込むことは困難になる。何よりも場所を獲得しなければならなかった。


もう1点が具体的行動。
いくら場所ができたとしても、僕たちがこれまで扱ってきた大学の問題(就活・学費・学内規制)について行動を起こさなければ、関係性だけが残り、少しずつ何となく運動としては終っていくのでないかと思った。そのため1ヵ月後、7月にはデモをしようと準備を始めた。


結論から言うと、この2点はほぼ予定通りに進めることが出来た。
場所はありがたい支援といくつかの幸運も重なり、7月中旬には手に入れることができ、デモも規模はあまり大きくないものの貫徹することができた。

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7月15日 大学解放デモ



目標を立て、それをすぐに実行に移すことができたものの、内部に目を向けるとどちらも厳しい状態であるという認識は強くあった。
場所において金銭的な面で大きなリスクを背負うのは3名、デモの運営人数も6名のみで、内いずれも1名はこれまで僕たちとは別文脈で運動をしてきた増井君であり、運動的な面におけるこれまでの関係性はガタガタのように思えた。主体的に動ける人数は最盛期のほぼ4分1。場所も運動も、どこかで爆弾が爆発しかねない危険性がいくつも潜んでいるような気がした。



また、僕個人としてもこのころはあまり心の余裕を持てずにいたのかもしれないと思う。
中心となっていた後輩二人が運動をほぼ離れ、僕自身は二人よりも関係性を構築することも、運動の組み立てることも上手くないことはわかっていた。さらに理論的にも非常に弱い。自分の能力の限界がもうすぐ来るのではないかという思いがあった。そのためか、ただただ現状と現像を踏まえて予測できる未来への危機感だけが先走り、頭の中にある今後の悪いイメージを拭いきれなかった。


今になって思うと、もっと上手くやることもできたのではないかという思いもある。
しかし、当時の僕にはそういったことができなかった。いびつに積み重ねてきたものの崩壊が少しずつ近づいていた。

僕の法政大学史47 2012年5

Aが釈放され、僕はまた運動から距離を置いた生活に戻った。


Aを奪還できたのはよかったものの、僕の中ではこれで大学の問題(学費・就活・学内規制)を争点とした、これまでの僕たちの活動 ゆとり全共闘は収束してしまうだろうと考えていた。中心となる後輩のうち、1人は運動をやめ、もう1人は逮捕。飛車角落ちのような状態で、継続性を勝ち取ることは、非常に困難なことのように思えた。またこの頃は実際に全体として今後に対するモチベーションもあまり高くはなかったのではないかと思う。


このとき、僕の心の中で「自分は十分にやることをやった」という運動から離れてしまいたい気持ちと、このまま僕たちの、僕たちがはじめた運動が潰れてしまってもよいのだろうかという二つの気持ちがあった。行動としては、手探りで下手糞だったかもしれない。それでも、これは紛れもなく僕たちの運動だった。自分たちで問題を見つけて、気持ちを共有できる仲間を見つけて、方針を考えて、形成されてきた全てものを、「自分はやることはやった」「将来があるから」と冷静に少し離れたところから分析するだけで、終らせてしまってよいのだろうかと考えた。
救援を終えたあとでも、何とか行動を起こそうと奮闘する後輩たちの姿が目に映った。



結論から言うと、僕は運動に戻る道を選んだ。
悩みに悩んだり、思い切って決断したというわけではなかった。ただ、何となく漠然と「そうすべきなのだろう」という思いに至った。
「連帯求めて孤立を恐れず」、ノンセクトは世界中を敵に回したとしても、たった一人になったとしても、戦う覚悟を持つべし、そしてそういった覚悟を持った上で、信頼関係を構築していくべし、という以前聞いて目標としていた姿勢がある。あるいは、そういう理想とする姿勢に少しでも近づこうとする気持ちもあったのかもしれない。




また、もう1点個人的な事柄として、この時に始めて完全に覚悟を決めることができた。
それまでは心のどこかに自分は逮捕・処分されていないから普通の生活に戻れる、活動もいわゆる過激派と言われる層に比べると大したこともしておらず、全うな人生に戻れるという気持ちが心の中にあった。自分の行動や決定の際には、将来への不安や、運動への恐怖が少なからずあった。


そういった気持ちを多分この時にはじめて振り切ることができた。
今後どうなるのか全くわからない、心の中に全く迷いや不安がないわけでない。それでも僕は、一線を越えて「こっち側」で生きていこうと決めた。これまでも何度か瞬間的に覚悟ができたことはあったが、それまでとは違うレベルで、僕は自分の気持ちを固めることができた。



この時点で6月、状況は決して芳しくない。
それでも僕は、僕に賭けられる全てを残りの学生生活に投じることにした。

僕の法政大学史46 2012年4

救援活動において、中心となったのが毎日のビラ配りだった。僕たちは連日裁判所前で文連・全学連と共同でA逮捕の不当性を訴えるビラ配りをした。


ビラ配りの様子は公安警察に監視され、終了後は尾行された。こういった嫌がらせの類いは、法政大学では日常的な光景であったが、外での僕たちゆとり全共闘としての運動では、ほぼ経験したことがない事態だった。明らかにこれまでとは様相の違う行動となっていた。

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ビラ配りの様子


ビラ配り・カンパのお願い・法政大学への抗議文の提出などを平行させるなかで、事前に予想していた通り、文連・全学連との共同の救援体制や方針に対する批判もあった。「なぜノンセクトだけで救援しないのか」「毎日のビラ配りに意味はあるのか」「Aは活動家ではないのだから、黙秘しないで出てくればいいのではないか」などの声があがった。


僕は、もっと効果的な方針を打ち出し、人を集めて、実際に行動に移せるような人がいれば、それに反対しなかったと思う。これ以上批判されたくも、責められたくも、嫌われたくもなかった。むしろ、誰か他に適任者がいるのなら代わって欲しいくらいだった。しかし、「救援費用・弁護士はどうするのか」「獄中のAはどういう態度をとるべきなの」といった問いに具体的に答えられる批判はなかったのではないかと思う。これまでとは全く異なる行動に対して懐疑的になるのは無理もないと思う反面、反対意見や方針外の行動を聞くたびに、僕は、苦しく不安になり、また苛立ちを感じた。
 

また、このときは話し合う場所がないことも響いたのではないかと思う。
3月にたまり場となっていた僕の部屋を解約していたことで、時間を気にせず不特定多数で話せる機会が激減していた。2者間、3者間での話し合いはできても、開かれた場所で、意見の共有をする時間を以前のように持てなかった。日々のビラ配りと錯綜する感情と情報、救援という難しい状況において、場所がないということはあまりよくない影響を与えたかもしれない。


救援において、もう一点印象的な出来事がある。
A逮捕の当日、齋藤君と二人でご飯を食べに行く機会があった。全ての話し合いを終えた後だったのではないかと思う。同期の中では、増井君と二人で会うことはよくあったが、齋藤君と二人でというのは久しぶりで、約2年ぶりのことだった。

会わない間に僕も僕で変化もしたが、この時には齋藤君も斉藤君で、ノンセクトではなく全学連委員長になっていた。

このことで、僕の周りには「昔の齋藤とは違うんだ」とか「大人に操作されているんだ」など、聞いていてあまり気持ちのよくない話を耳にすることが時折あった。多分、以前の僕ならば、先輩の声を重く受け止めていたと思う。でも、いつからかそういった所属による判断やネガキャンに振り回されることをやめようと思うようになっていた。

僕に見える齋藤君は以前と変わらない正義心と誠実性のある優しい人間のように思えた。齋藤君はノンセクトであろうが中核派であろうが、僕にとっては信頼できる友達だった。

ただ月日は流れ、Aの救援という任務をお互いに責任を背負って全うしなければならない立場に置かれていた。やりたいことではなく、やらなければならないことが目の前にあった。2007年から6年が経ち、その月日は思った以上に重いものだった。僕は、僕たちは、何も知らず自由な大学1年生ではなく、客観的に見たときにはほぼ活動家のようになっていた。





5月10日、文連・全学連と共同の救援活動をやり抜き、Aが釈放された。Aは厳しい取調べに屈せず、完黙・非転向を貫いた。そして僕はもう一度、運動から離れた新しい生活の構築を試みる日々に戻った。
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自由空間

Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

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