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僕の法政大学史51 2012年9

10月上旬、僕らは完全な窮地に陥った。


4月の法大デモでの逮捕以降、あるいはそれ以前から張り詰めていた関係性の糸がついに切れた。もはやデモはおろか、キャンパスで集会や鍋を実施する体力もほぼ残っていなかった。キャンパスを横断した連帯で大学に共通する問題と向き合い、アクションをかけるという僕たちの行動を継続・拡大できる可能性はほぼ潰えた。


ある程度は覚悟していたこととはいえ、このときはさすがにショックがあった。
2009年に法政大学で飲酒規制に対する抗議を始めてからというもの、2010年に就活どうにかしろデモ、2011年にゆとり全共闘結成、過去最大規模となる就活ぶっこわせデモ、イベントやメディアへの登場と、内部的な困難や葛藤はいつもありながらも概ねは拡大に成功し続けていた。迷いながらも、戸惑いながらも、前に進み、何かを残していけているのではないかという感覚は常にあった。そして、それが少なからず方針への自信につながっていた。
しかし、それらの全てがこのときに手元からほとんどなくなってしまった。


これまでの経験から、絶望したりとかもう終わりだということは、思わなくなっていた。ただ、これからどうすればいいのか、その方針に迷った。
卒業までの時間は5ヶ月、ここから何かを残せるのか、何をすればいいのか、そもそも自分のしてきた行動は正しかったのか……。残された時間と可能性から、焦りが募った。




「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
窮地の中にいる僕に声をかけたのは増井君だった。法大では、文連・全学連主催による大規模なデモが4月と10月にあり、そのデモへの決起を僕に呼びかけた。


2007年に法政大学に入学し、増井君と出会ってから6年が経っていた。
2008年に共に文化連盟を残し僕だけが脱退したこと、2009年に暴処法弾圧の際に公安警察の取調べに応じてしまったこと、あるいは僕が運動を始め周囲からよく思われなくなったことなど、僕は増井君に会うのが感情的に難しい時期は確かにあった。そして、それは増井君にもあったのではないかと思う。
しかし増井君は、「君の行動はここが良くない」と批判し、「この点はよいと思う」と肯定し、「もっと決起しろ」と煽り続けるという態度を周囲の環境の変化に関係なく一貫して取り続けた。僕にとっては、文化連盟委員長としてキャンパスに立ち続け、そして全学連委員長になった斉藤君と同様に、学生生活をあるいは人生を「オルグ」し続ける重要な人物だった。


大学生活において、この二人に出会っていなければ、もしくは二人の存在を切り離せていれば、全く違う学生生活と人生があっただろうと確信を持って思う。デモとか、集会とか、弾圧とか、逮捕とか、救援とか、内ゲバとか、黒ヘルとか、白ヘルとか、分断とか、マルクス主義とか、面倒くさいあらゆることに関係のない場所で、楽しいキャンパスライフを送って、それなりの会社に勤めて、そこそこの幸せを掴めていた可能性だってある。

しかし、斉藤君の、増井君の、人生をかけた闘い以上に、美しいものも、惹きつけられるものも、正しさを感じるものも、大学の中にはなかった。そして恐らくはそれが全てだった。何も知らずに地方から東京に出てきて、「中核派が、過激派が大学にいる!」と好意的に興味を持ってしまったこと、そして同期にこの二人がいたことで僕の学生生活はある程度決定してしまった。



「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
僕は法政大学という19歳から25歳までの多くの時間を過ごした場所のことを思った。ありとあらゆる感情をその場所で経験した。これまで感じたことがなかった大きな喜びも、大きな憎しみも、大きな後悔も、全てその場所の中にあった。
そして自分が今置かれている状況と、残された時間で何をすべきなのかを考えた。


その結果として、感情的にも、また今後の可能性としても、決起するのが最も良い選択肢であるように思えた。僕は学生生活で最初で最後の法大デモへの決起を決めた。
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Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

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