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僕の法政大学史16 2008年5月中旬

僕が文連を脱退した数日後、ある先輩に呼び出された。


呼び出された場所へ向かうと、そこには文連に残らなかったノンセクト的学生のほとんどが集まっていた。その中には五年生や六年生もいて、当時二年の僕からしたら話すだけでも恐れ多いような大御所がずらりと並んでいた。

この時の会議の趣旨としては、「このままではサークル新本部(CSK)は当局寄りの学生で構成されるただの当局の御用組織になってしまう。こちら側からも人を送り込んでサークルを守らなければならない」というものだった。


この辺りの話はややこしいのだが、07年までサークル本部は3つあり(旧三本部)、学団連という団体が旧三本部解体騒動時に最も早く大学に屈し、大学の言いなりの「当局の犬」のようなイメージを一部から持たれていた。そして早い段階で本部解体を決めた分だけCSKには学団連から多くの人が入り、学団連色の強いサークル本部になるのではないかと懸念されていた。


このときの会議では「CSKに人を送り込む」という意見への賛同が大多数を占めたものの、後日CSKに入ったのは三名だけだった。

恐らくこのころは数日後に戦いを開始する文化連盟を除くと、ノンセクトの体力がほとんど残っていなかった。当然のことだが、いちいち大学に噛み付くよりも学生側の権利の喪失があろうとも、大学に従うかもしくは関わらない方が楽である。04年の学生会館解体に続く07年サークル三本部解体で僕の上の代の先輩たちは、当局と戦って何かを守ったり勝ち取るということにリアリティを持てなかったのではないかと思う。


そして、僕もこの時の先輩からの「サークル新本部に入ってくれ」という誘いを断った。
理由としては齋藤や増井を枠から外して作られる組織に対する違和感が大きく、「文連解体のゴタゴタは忘れて新本部で頑張ろう」というところにあまり乗れなかった。先輩の言うとおり、サークル新本部が大学の御用組織になることに危機感はあったけれど、そんな簡単に気持ちを切り替えることができなかった。




仮に08年にCSKが文連の「暴力」を大学との交渉に利用できるくらいの能力を持っていたら、法大は今とは違う状況にあったはずである。

事実として、07年以降学内で大きな規制や学生にとって不利な変化がなされていないのは文化連盟が学内で力を行使していた08年だけで、08年当時いくつかの団体や思惑が絡まりあった微妙な力関係は確実にあった。しかし、当時の学生の中にはその微妙な力関係を操れる人は誰もいなかった。


08年5月中旬、サークル新本部は大学寄りの組織になることが決定的になり、これと同時に文連以外のノンセクト学生のほとんどは大学と戦うことをやめた。そして、数日後から文化連盟は戦いを開始した。
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Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

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