スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

法大暴処法弾圧1審判決を控えて

「自分にも尾行がつくようになったのか」

初めはそんな風にしか思わなかった。忘れもしない2009年5月15日金曜日のことである。

この日、僕は一限から大学に来て講義を受けていた。そのため僕の背後にいつも職員さんがついてくることには、午前中の早い段階で気づいていた。
今思うと、一学生である僕に尾行が付く事は異常なことではある。しかし、当時の法政大学では文連・全学連VS大学の戦いが激化しており、その周辺をウロウロと動きまわっていた僕に尾行が付くことは、僕の中では「法政大学ならやりそうなことだな」くらいにしか思わなかった。

事態の異常さに気づき始めたのは昼休みを過ぎた辺りからである。
文化連盟及び全学連の人が次々と逮捕されているという連絡が届いた。この時僕は「何か大変なことが起きている」という感覚はあったが、その「大変なこと」と学内での自分への尾行を関連付けて考えることができなかった。その結果、公安警察と大学の連携により、僕は大学の門を出てすぐに公安警察から「任意」の事情聴取を求められることになる。


2012年5月31日に一審判決が出ようとしている暴処方弾圧に、僕はこのような形で関わることとなった。


暴処法弾圧、その事件の詳細を簡単に記すと、2009年2月19日深夜に、法政大学の門前に掲げられていた看板を集団で共謀して破壊したというものである。この弾圧では11名の逮捕、5名の起訴が行われ、逮捕・捜査の手は北は北海道・南は沖縄まで伸びた。任意の事情聴取を含めれば計17名が警察・検察に連行され、ガサ=家宅捜索は全国20ヶ所以上にわたって展開された。


5月15日に僕に行われた事情聴取は日付が変わるころまで行われた。


僕は、あまり話さない方がいいのだろうなと思い、「わからない」「覚えていない」と繰り返した。そもそも3ヶ月も前のことであり、しかも看板を壊したという現場から僕は離れていたので、実際に「わからない」し「覚えていない」ことの方が多かった。
「わからない」「覚えていない」を繰り返す僕に、検事は僕に凄みを聞かせてこう言った。恐らく一生忘れないと思う。

「警察に呼ばれたということはどういうことかわかっているんだろうな」

その時、僕は自分まで逮捕されることを予想した。
当時、僕は学生運動もしていない、看板も壊していない。それなのに逮捕されてしまうのかもしれない、僕はその時にそれまでの人生で最大の恐怖を感じた。


僕は検事のその一言で屈服した。
その後、防犯カメラの写真を見せられ、「これは誰か」という質問に延々と答えた。全て答え終わった後に、携帯電話と手帳を押収された。おかしいとは思ったが、僕にはどうしようもなかった。


その日はそれで解放されたが、僕はそれから二度検事に呼ばれ、初めの一度目に応じてしまう。
多くの方が検事・公安からの呼びかけに答えるなとアドバイスしてくれたし、獄中の友人・先輩たちに対して思うところもあった。
それでも当時21歳だった僕は、過激派と呼ばれる団体や活動家と呼ばれる人々よりも国家権力の側を信じていて、また逆説的に信じていた国家権力が過激派や活動家よりも自分にとって恐怖でもあった。
しかし、「前回の確認がしたい」言われて向かったその場では公判前証人尋問というものが行われてしまった。僕はこの時に国家権力の不正議に気づくとともに、恐怖に打ち勝てなかったことを強く後悔した。


国家の暴力と不正義を21歳で身をもって経験できたことは、良くも悪くもその後の僕の人生を変えることになったと思う。
僕はこの暴処法弾圧以降に学生運動に関わるようになった。それは、友人・先輩が逮捕されたことに対する怒り、友人や先輩が人生をかけて戦っている時に何も出来なかったことへの申し訳なさといった感情面がまずあったと思う。僕が何かをしなければならないと思った。
それから、3年の時が経ち、当然のことながら感情はある程度は風化する。2009年5月、僕は胃腸炎となり薬を処方されていたが、そのような体調的・精神的異変はもう感じることはない。


では、なぜ今でも関わり続けているか。
改めて考えてみると、結局のところ、母校の異常な状態に対するただならぬ危機感そしてそれを可能としている力に対する批判からだと思う。


法政大学の異常な状態というのは、この暴処法弾圧においても如実に現れている。
2月19日に破壊されたという問題の看板には以下のように記されていた。

「構内立入禁止の通告
二〇〇八年四月一日付けで文学部を除籍となった左記の者の構内立入禁止を通告する。
二〇〇九年一月一九日 法政大学
記 増井真琴 以上」


大学において、学費未納で除籍となった学生の名前を昼夜掲示し、「学内に入るな!」と通告する内容である。
もちろんいくら法政大学と言っても、除籍となった学生全ての入構禁止看板を設置しているというわけではない。当時、増井君は法政大学のあり方に対して抗議行動を行っていた。その経緯から実名入りの入構禁止看板が設置されたと見ることができる。


しかし、大学において本当にこのような実名入りの入構禁止看板は必要だっただろか、そしてそのような人権侵害看板が破損されたからといって学生を警察に売り渡してよかったのだろうか(法政大学の看板の破壊をめぐる問題なので、法政大学が「被害者」として協力しなければ逮捕できないような事柄である)。

増井君は意見陳述において、以下のように述べている。

「法政大学は、一方で08年のデリバティブにおいて28億円もの損失を計上しておきながら、他方で学費が払えず除籍になった学生の看板、総額12万3千円を奪われたからといってブリブリ怒っている。 (中略)ふざけるな、ということです」


この事件は、法益侵害の程度(12万3千円)と、弾圧の規模(11名逮捕、5名起訴、全国20ヶ所以上ガサ)がまったく釣り合わないのが特徴だ。それは、文連が主導していた学生運動をつぶすためにしかけたられた、大弾圧であるからに他ならない。学館解体以降に最も法大当局を揺るがしたのは間違いなく08~09年の闘争である。


増井君もそうだが、齋藤文連委員長(現全学連委員長)、恩田文連副委員長、織田全学連委員長(現NAZEN事務局長)、社会科学研究会所属の洞口さん他、当時法大学生運動を率いていた幹部メンバーはあの一斉逮捕で全員いなくなってしまった。起訴された5名に至っては、その後8ヶ月間も東京拘置所の獄舎へ勾留され続けることになる。その後の法大運動は明らかに勢いをなくし、沈静化していったと思う。

増井君の入構禁止看板は法益保護の対象ではない。撤去されて当然の代物だ。大学という教育機関でありながら、人権侵害看板をキャンパス全門に張り巡らせた法政大学こそ、裁かれるべきである。

実名入りの入構禁止看板を掲示される以前、学籍を有した学生者であったころから増井君は、法政大学から犯罪的な嫌がらせや大学生活そのものの破壊を受け続けていた。大学に入る際の警備員からの入構チェック、学内での尾行・撮影が日常的に行われていた。このことは増井君に限らず、勇気と正義感を持って法政大学の不正義に抗議した多くの法大生が経験している。

しかし、全ての学生が勇気と正義感を持ち合わせられるわけではない。
異常な警備体制、学内を闊歩する謎の職員、学生を無視して一方的に決められてきた多くの規制、処分と逮捕、このようなあり方に自らの身体性を行使して抗議・批判をすることは、法政大学においては銃口を向けられるようなことである。普通の人は銃口を向けられたくない、結果として法政大学は問題意識を持つ学生・ 自ら考える学生が生まれない・生まれにくい環境づくりを推進し続けている。それは2009年よりもさらに深刻度を増している。

法政大学では、考えないように、問題意識を持たないように、行動しないようにと学生の従順な管理が日々進行している。このことの方がどれだけ犯罪的であるかと思う。
大学という場において問題意識を持つこと、行動として示すこと、これらは何一つ罪ではない。このことは大学から実名入り看板を出されること、また数え切れないほどの嫌がらせを受けることの理由にもならない。


社会において、本当の「犯罪」を犯しているのは誰なのだろう。
現在は目に見えるような過激な行為は何一つ行っていない過激派と言われる団体と、その過激派への弾圧を止めようとした学生たちなのか。
過激派と呼ばれる団体を暴力的に排除しようとし、さらに若者を殺している法政大学なのか。5月31日の判決では、どのような正義が示されるのだろうか。僕は前者の側を信じたい。


法政大学文学部哲学科4年 菅谷圭祐
スポンサーサイト
プロフィール

自由空間

Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
カテゴリ
フリーエリア
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。