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法大関係者の方に取材⑧ 始まりはいつからだったか

「ボアソナード・タワー」。現在の法政の象徴として扱われている建物である。大学ホームページでもパンフレットでも「ボアソナード・タワー」の写真が法政の顔として踊っている。
しかし、この「ボアソナード・タワー」の設立が法政の「自由と進歩」の崩壊の始まりだと指摘するOBもいる。
法政大学OBの方が話してくださった。




 ここ十年スパンで考えるとボアソ設立が大きいだろうね。現在の法政っていうのはボアソのルールがキャンパス全体に拡大解釈されてきている状態だから。
 ボアソが設立される前には53年館っていう建物があったんだよ。院生が使っていた建物なんだけど。その53年館が閉鎖されてから取り壊しを始めるまで数年かかってるんだよ。当時の学館人たちが反対したんだ。「53年館が取り壊されて新校舎(ボアソ)が立ったら間違いなく学生の自主文化は崩壊するだろう」と考えていた。その当時の人たちはもう先を読んでたんだよ。そのころから今のようなキャンパスになることを予想していた。工事の人たちを追い返したこともあったらしいよ。


――でも結局00年にボアソが設立されてしまいます。

 ボアソがオープンしてからも始めのうちは衝突がすごかったんだよ。00年の最初のころっていうのは異常なキャンパス状況だった。
 ボアソの落成前にガラスを割ったっていう事件もあった。あと、ボアソ使用開始当日に当時の法大生の常識だった「どこでもビラを貼っていい」ということで掲示板以外のところにビラを貼ったんだ。今の入試センターの辺りだよ。そしたら職員が来ていざこざが起きた。ボアソがオープンして30分くらいしか経ってなかったと思う。ボアソオープン当初は小さな衝突も含めるとしょっちゅう問題が起きていて、教授クラスの教員までヘリオスの監視をさせたりとかしてたね。それはさすがに教授からの反対もあったらしくて1、2ヶ月でなくなったけど。
 見解の相違で大学側、学生側どっちかが悪いっていうのはないと思うんだけど、あのころはみんなが常にイライラしている感じだったなあ。


――ボアソ建設を含めた方針転換はどの時期に行われたのですか?

 総長の代でいったら清成路線になってから明確に変わった。新しい学部が作られてから、昔なら法政に入らないような人をいっぱい見かけるようになった。簡単に言うとチャライ感じの人が増えた。「暗い、汚い、地味」みたいな法政らしさはほとんどなくなっちゃった。
 一応近視眼的にも見れば確かにその政策は成功しているんだよね。全入時代で定員割れする大学もある中で、毎年ちゃんと人が入ってきてるんだから。とりあえず見た目は成功してる。
 でも言い方は悪いかも知れないけれど、今の法政は「管理のよく行き届いた大学」。監視カメラもいっぱいつけられて。そういうキャンパスを作ること自体はとても簡単なんだ。でもそのせいで、学生の自主はどんどんなくなっていく。今の大学を見てると、発想力もなくなっちゃう感じがするよ。


――今後、学生はどうしていけば良いと思ますか?

 ないね、見通し。困っちゃうよね(笑)。歴史の終わりって言えば簡単なんだけれど、終わらせるわけにいかないからね。
 本当に昔の雰囲気が残っているのは55・58年館だから、55・58年館が取り壊されちゃったら完全に昔の法政の雰囲気はなくなくなると思うよ。別の大学になってしまう。
 とりあえずできることがあるとしたら、55・58年館を残すことじゃないかな。それも現状維持で飛躍にはならないけれど。55・58年館取り壊しっていう話はそう遠くないうちに出てくると思うよ。
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法大関係者の方に取材⑦ 学生ホールのお話 ‐下‐

07年ホール改修時のホール協の方




――ホール改修というのはいつごろにわかったんですか?

 07年の春先から改修されるかもしれないみたいな噂はあった。学生センターの職員と工事業者の人がちょくちょくホールを確認しに来ていた。それでこれは怪しいなという話はしていた。それで学生センターに問い合わせみたけど「そんな話はない。心配するな。」と言われた。
 その後7月に、大学当局がホール改修工事計画を着々と進めているという確定情報をある筋から秘密裏に入手した。
 でも公式にはホール協に学生ホール改修の話は全くこなかった。そこでもう一度学生センターに問い合わせたが、「知らない」の一点張りだった。知らないという言葉はそれ以上追求できなくなる便利な言葉だとつくづく感じた。


――改修されるとわかってからはどうしたんですか?

 ホール協という組織は年に4回の総会しか加盟サークルが全て集まる機会がない。だから迅速な対応ができるわけではない。7月にホール総会はあったが、ホール改修の話は本来この時点で学生が知っているはずがないので、決してホール協以外の人間には漏らさないようにと情報筋から厳命されており、その場で言うことは出来なかった。一応建設業者の人間が度々出入りしており、怪しいぞとだけは伝えた。

 学祭が終わったあたりに、個人的に繋がりが出来た学生センターの職員にホールのことを聞いたところ、「自分もよくわからないが、障害者のための施設ができるかもしれないという話を聞いたことがある」という回答を得た。曖昧な表現だったが、当時外濠校舎のゆうちょATMの横の部屋が「障害学生支援“準備”室」だったので、“準備”がとれて正式なものがホールに作られるのだと確信できた。
 それを受けて12月にあった第3回目の総会で、正式にホールが改修されるという話をした。そのときの話し合いで、学生センターからの正式な話が全く無いので、とりあえず1サークルから1人ずつ出して集団で学生センターに今後ホールをどうするつもりなのかという質問状を出すことになった。
 そうしようとした矢先、学生センターから呼ばれ、正式なホール工事の図面を渡された。それまでは全く学生センターから話がないのに、質問状を出そうと計画したら学生センターから呼ばれた。まさに肩透かしを食らった感じだ。


――それはサークルの中で学生センターの職員にリークした人がいたということですか?

 ホールのサークル員じゃないスパイが総会に紛れていた可能性はある。でも今回の集団要求を防いだところで、また来る可能性はいくらでもあるわけだし、たまたまタイミングが(向こうにとって)良かっただけだと思う。


――それからどうしたんですか?

 それから何度も話し合いの要求を文書で出した。でも完全に無視。学生センター会議でどういう話し合いをしたかはある職員が教えてくれたけれど、それは個人的なもので正式な話ではない。公式の話し合いの場は設けてもらえなかった。
 サークル本部の文連にも助けを求めにいったが、「文書を出すくらいしかできない」とのことだった。
そのまま1月の最後の総会を迎えた。このときの総会に中核派が来て会議が紛糾した。総会はいつも10分くらいで終わるのだが、この時は2時間くらいかかった。
 最終的に工事前にホールに立てこもるか、改修されたホールを勝手に占拠するかということになった。詳しい数は覚えていないけど、立てこもりに同意したサークルもあった。しかしあまりにも数が少なすぎた。80サークルもいて極僅かのサークルだけが立てこもりに同意しても色々無理だろうということで、改修されたホールを占拠しようという結論になった。それで08年の4月は新しいホールの机に自分達の看板を置くサークルが沢山あったが、結局程なくして今のホールのようになってしまった。


――反対運動はほとんど起こらなかったんですね?

 運動は起こらなかった。
 申し訳ないが起こせなかった。当時はメンツがいなかった。ホール協といっても実質自分一人でやっているようなものだったし、09年の飲酒闘争みたいなことをする層は07年にはいなかった。
 キャンパス再整備は学館解体から始まってホールつぶしで終わった。要するにサークルの居場所つぶしで始まってサークルの居場所つぶしで終わった。学生ホール改修はキャンパス再整備の真の目的を表す象徴的な事件といえるだろう。

法大関係者の方に取材⑥ 学生ホールのお話 ‐上‐

 ゼロ年代中期に行われた学館解体などを含む「キャンパス再整備」。その最後に着手されたのが学生ホールの改修である。学士ホールは公認、未公認を含め80近くのサークルがたまり場として使用していたが、改修によってその機能を喪失した。
 学生ホールの運営を担った学生ホール利用者協議会(以下、ホール協)の隆盛期と終末期のそれぞれ二名の方のお話を掲載する。




02、03年のホール協の方

――ホール協という組織はどういう経緯でできたのですか?

 90年代初頭までは学生ホールを使うサークルは毎年入れ替え制だったんだよ。4月1日に早いもの勝ちで机をとっていたんだ。走って机を占領しに行くんだよ。その4月1日のホールの机の取り合いはけが人が出るくらいだったらしいよ。
 その状況を大学が見かねて、アカデミー合唱団を中心に公認団体を呼んで、「危ないから話し合いで席を決める方法を作りなさい」と言われたんだ。それがホール協の始まり、90年代初頭のことらしいよ。
 でも当時のホール協って簡単に机の割り振りをしたあとは、一年間何も仕事がないんだよ。そこに「貧乏」の松本哉さんが目をつけて「よし行け!」ってオレらを派遣した。それでオレらもホール協に立候補したんだ。学生ホールはほとんどがテニスサークルだから立候補すると大抵選出されるんだよ。それからはアカデミー合唱団とFMC(映画サークル)と「貧乏」の出身が本部員をやるようになるんだ。
 貧乏出身者っていうのは松本哉さんの影響を受けているから、ホール協を当局から切り離すんだ。当局が用意した「御用団体」に入りこんで内部から変えていった。自治組織を乗っ取って作ったんだよ。


――具体的にどのような自治活動を行ったのですか?

 学生ホールの机が古くなってきたから新しいものに変えてもらうのを要求したりとかしたね。実際それでホールの机は新しくなったんだよ。
 あとホール協主催で学生部長関係を開いたこともある。タバコ規制のことだったね。分煙はわかるけれど、禁煙はおかしいと。喫煙所を設けろということを要求した。
 テニスサークルが中心だから要求運動ばかりじゃなくてホール協サークルの横のつながりを作るため「ホール協コンパ」をしたり、オレプレに対抗してホール協サークルからアンケートをとって独自の「裏シラバス」を作ったり。


――「貧乏」派閥がホール協を生きた組織にしたということですか?

 そうだね。結果的に「貧乏」は学内のいろいろな組織に人材を輸出していた。
 私は貧乏は一年間で辞めて独立して今も続くサークルを作りました。そのサークルとしてホール協に加盟し、02、03年に私がホール協の委員長になりました。さも昔からあった本部団体のフリをしてホール協の本部印を飯田橋のハンコ屋で特注して(笑) 浜村学生部長にそのハンコを押した要求書を提出したら、受理してくれた(笑)
 02、03年のころはビラ貼り規制が進んで掲示板以外に掲示物を貼ってはいけなくなってたんだけど、学生ホールだけは別格だった。二階の教職員食堂からポスターをぶら下げたりしてた。あれは本当は違法なんだよ。掲示板以外にビラを貼っちゃってるわけだから。でも、ホール協っていう存在があったからそういうことができたんだ。
 実際、学館が潰れたあとでも学生ホールは多くのサークルがたまっていたし、自由だった。第二の学館みたいなものだったんだ。それはやっぱり潰されるよね。

法大関係者の方に取材⑤ ある元本部員の告白

今まで取材に答えてくれた人の多くは、多かれ少なかれ現在の法政について懐疑を抱いていた。意識的にそういった方向の意見ばかりを集めているわけではないのだが、今のところ結果としてそのような意見が多くなっている。
しかし、全てのOBや法政関係者が懐疑を抱いているわけではない。サークル本部員まで経験したOBが今までとは方向の違う意見を話してくれた。




――サークル本部にはいつから関わり始めたんですか?

 サークル本部には1、2年生のころから顔を出していたけど、実際に自分がやるようになったのは3、4年になってからだよ。入学したころは自分のサークルの活動をやっていた。
 正直に言ってサークル本部とか事業委をやってる俗に言う学館人たちはあんまり好きじゃなかった。内輪で盛り上がっているようにしか見えなかったから。結局、自分のサークルにいづらくなったからそっち(サークル本部や学館を運営する側)に移ってきただけという風に感じた。


――どういうところでそう感じたんですか?

 そういう人達はほとんどサークル活動をしてなかったんだよ。もちろん忙しいっていうのもあると思うんだけど。その人たちの「オレらは忙しいからサークル活動をしない。でもサークルのことを考えてるよ」的な雰囲気がオレはすごく嫌いだった。


――サークル本部と普通のサークル員との間では「学生自治」などに対して温度差はあったのですか?

 あったね。週に一回の常任に対しても普通のサークルからしたら「めんどくさい」っていう感じだった。オレはそういうのをそこそこ好きだから出てたけど。
 学館解体の話のときも普通のサークルにとっては「居場所は持っていたいけど、そのために何かをしたくはない」という感じだった。結局、いつも学生の資質は変わんないんだよ。熱くなってたのは執行部とその周辺だけ。普通のサークルからすれば「この人たち何言ってるんだろう」っていう感じのところはあった。それは学館があったときもなくなってからも変わらないと思う。執行部の中では盛り上がってたんだろうけど、「僕たちこんなに大変なことをやってるんだ」という自己満足的な部分が執行部にはあるから。


――実際に学館がなくなってどう思いましたか?

 学館がなくなったことに対する喪失感はサークルをやってる人達にはあった、身勝手な話だけど。実際に基盤がなくなっちゃって「どうしようどうしよう」って。結局、既得権益だったんだよ、学館って。それが失われるというのは想像してなかった、勝手なもんだね。


――学館解体や本部解体などを経てサークル活動は不自由になったと思いますか?

 個人的には変わってないと思う。オレの中では入学した年からサークル活動は衰退していないと思う。だって純粋に表現規制とかがされてるわけじゃないしね。


――2010年になった今ではサークルの横のつながりはほとんど残っていませんが……

 それがサークルの衰退になるかというと、ちょっと疑問なんだよね。昔から横のつながりがあるサークル以外は他のサークルの人なんて知らなかったし。
 GLCをやっても要は一部しか来ないわけでしょ? 一サークルから二人とかしか来ない。その人たちだけで盛り上がってサークルに話を持ち帰って何かやっているかというとやってない。自分のサークルに戻って「こんな問題があるんです」って話しても「ふーん」ってなるじゃん。GLCも正直なところ、お金の無駄遣いみたいなところはあったと思うよ。もちろん一部の人の意見でも意見を集約したことでサークル本部や学祭実は名目を保てるんだけどね。


――今のCSK体制がサークルとしてベストだと思いますか?

 ベストだとは思わない。ただ、今の状況で全てのサークルの意見を集約してどうこうっていうのは無理だと思うんだよね。現在のCSKに関しては詳しいことは知らないけど、情報伝達機関としてはいいんじゃないかな。
 サークルって自分たちの活動ができればいいわけで、基本的にね。結局サークルなんて自分勝手なんだから。それを統制して「みんなで団結して頑張りましょうよ」っていう意見とはオレは違った。


――入学したころと今とでは法政は変わりましたか?

 もちろん学館がなくなったから日常的にサークルが活動してるみたいな姿は見づらくなったとは思う。でも自分たちがやりたいからサークル活動をやってると思うんだ。だから学館がないからサークル活動ができなというのはおかしな話なんだよ。サークル本部も一緒で本部があってサークルがあるんじゃなくて、サークルがあって本部があるんだから。
 補助金が出なくてもちゃんと活動してる未公認サークルもある。やろうと思えばどこでだって活動ができるわけだから。もちろん交響楽団みたいに金が超かかるところは今だって補助は出てるんだし。昔と今を比べてもそんなに変わってないと思うけどね。

法大関係者の方に取材④ ロングインタビュー 7年間の記憶⑥

 学館解体後のサークル文化への願い




――04年で学生会館は解体しますが、それ以降弱体化の一途を辿るんですか?

 個人的には04年に文化連盟の委員長に就任します。もしも学館がなくなったらサークル本部が大事になってくるっていうのがわかってたからね。それに、みんなやりたがらなかったんだよ。学館がつぶれる、つぶれないっていう難しい時期だから誰もやりたがらないんだ。
 常任(加盟サークルが集まって週に一度行われていた会議)って普通のサークルの人はなかなか意見が言いにくいんだよ。自治会系(中核)のサークルが香ばしい意見を言ったりはするけれど。だからオレが委員長をやったときは意見を言いやすいようにしようと思って三サークルずつくらいに別けて分科会っていうのをやったんだ。

 意見を言うことに慣れてきた人の中に有望な1.2年生がたくさんいた。学館のホール棟がまだ建っている段階で、「新施設(外濠校舎)の図面に学生の要求が受け入れられたのを確認してからひきかえにホール棟を当局に引き渡そう」という交渉戦術案がでるくらいだった。しかも法大工学部の建築士の先生にお願いして、外濠校舎のフロアの学生案を建築図面にして提出もした。教員にも味方はいたのです。
 ただ「反対」というんじゃなく建設的な対案も出していた文連サークルのレベルはすごかったですよ。


――その有望な一、二年生たちに将来のサークル文化を守ってほしいと思ったんですね?

 難しい質問なのでまた例え話をさせてください。
 法大生と法大当局の当時の関係は銃を向け合っている二人のガンマン。好むと好まざるに関係なく、それが先輩たちから引き継いだ状態。ただし学生のピストルにはもう弾丸は入っていない。だけど銃は自分から条件なしに降ろしちゃいけなかった。少なくとも当局に「二人で同時に銃を捨てないかい?」ともちかけるような「ハッタリ」が必要だった。しかも初めは当局は我々のピストルに弾丸が入っているかも、と恐れていたことはさっき話しましたよね。
 まとめますよ。平和条約を結ぶ前にさっさと武装解除してフルボッコにされたというのが近年の歴史。「この国は昔と違って戦争継続力はないから停戦が国を救う道」と判断すること自体はいいんです。ここで無責任なOBが「戦えよ!」と文句を言うのは竹やりで飛行機を落として勝てっていう精神論と一緒(笑)
 ただ、先輩たちの築いてきたアドバンテージを生かしきれず、学館解体、外濠校舎での権利縮小、そして学友会「自主」解散、と譲歩するだけでズルズル押されてきたのは、断じて「時代の流れ」でも「サークル・法大生の質」のせいでもないです。ボタンをはじめに掛け違った我々世代の戦略ミスです。本当に申し訳ありません。




「ボタンの掛け違え」のせいなのだろうか。04年の学館解体以降、学生を管理するような規制が設けられ続けている。


――この年で大学を卒業しますが、大学生活七年間はどうでしたか?

 楽しかったね。苦労したなって思ったのは9.21のときくらいで。学内運動というのを意識して動いてきたけれど、これほどおもしろいことはない。あんまり思想で武装しなかったのが続けられた理由かなぁと思う。
 というのは、私は法大黒ヘルのつもりではいましたけど、政治とか思想っていう意味での運動にはあまり関心がなかった。楽しい法政と自分のサークルが好きで好きで、そのための利益誘導運動でした。70、80年代の先輩方とお会いすることがあったら「なんだこのアホは!?」と思われるでしょう(笑)だけど自由な法政が誇りだったし、自分のサークルに入ってくれた後輩らが大事だったので、それを守ることしか考えられなかったのです。


――今の法政を見てどうですか?

 諦めないでほしいね。もちろん厳しいのはわかる。すごく気持ち悪い大学になっちゃったなとも思う。監視カメラもいっぱいあるし、少しボールを投げただけで警備員がすっ飛んでくるとかおかしいと思う。おかしいとは思うけれど、諦めないでほしい。
 歴史上でも学館自体が非公認化されてから十年以上持っていたという事実。黒ヘルという人脈が一度途切れても復活しているという事実。学館というハードがなくてもホール協みたいに当局が作った組織を乗っ取ることでサークルの権利を守る連合体を組織できたという事実(ホール協の話題は次回以降に掲載)。そういう歴史を知ってほしい。歴史を知ることでもしかしたら将来何かできるかもしれないということを言いたい。歴史っていうのは今に生かさないといけないからね。



本インタビューは今回で終了です。6月中旬もしくは下旬には新たなインタビューを公開できると思います。
プロフィール

自由空間

Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

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