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このサイトについて

本サイトにお越し頂きありがとうございます。

本サイトは、わたくし菅谷の学生時代の出来事を記した「僕の法政大学史」という全54回の記事がメインコンテンツとなっています。

「僕の法政大学史」は、2007年から2012年の間の6年間という通常よりもちょっと長めで、恐らくはあまり一般的ではない学生生活について記してあります。この文章は、約3年間という短くない時間をかけて、まるで何かに取り憑かれたように在学中・卒業後と僕自身の状態も変化していく中でも、少しずつ少しずつ進行させ完成させました。

しかし、時が経ち読み返してみると少しの気恥ずかしさと大きなもどかしさを覚えます。
時間の流れからか、当時絶対に主張したかった部分がその意味を失ったり、もっと上手な伝え方があったなと反省する点が多々あります。客観的に見て、読みやすい理解しやすい文章ではないなと思います。

拙い文章ではありますが、当時僕を闘争へといざなったいくつかの行動や言葉のように、僕の大学時代の稀有で異質な経験も、どこかで誰かに何かを思い立たせるきっかけとなってくれれば、これ以上に望む事はありません。多くの方が好んで読むような文章ではないことは自覚しつつ、特定少数の「あなた」に届いてほしいと僭越ながら願っています。



僕なりの大学生活の総括は以下に記してあります。
ゆとり全共闘総括文章(菅谷)

僕が現在何をしているのかについては、以下で随時更新されていくかと思います。
菅谷圭祐の生存報告
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僕の法政大学史54 2012年12

昼休みが始まり、僕はまず屋上へと向かった。



ここでの僕の目的は、「法大当局に告ぐ 学生をなめるな」という垂れ幕を垂らすことだった。垂れ幕では、法大に対して、怒りを感じている学生が文連・全学連だけではないことを視覚的に示すことと、当局が敷いている弾圧の秩序を少しでも乱すことをねらった。「ノンセクトらしく戦おう」という方針から作成された特大の垂れ幕だった。



予定では垂れ幕は始まりに過ぎず、すぐに終らせる予定だった。しかし屋上に着き、問題が生じた。
ある程度予想はしていたことではあったが、屋上にも監視業務を行う教職員が数名待機していた。法政大学は、学生が少しでも集会・デモを見ないように各階に教職員を配置する。教職員の監視を掻い潜って、横断幕を垂らすことは非常に困難なことに思えた。


ここで何もせずにじっと過ごしているわけにはいかない。垂れ幕は諦めるべきか、迷いが生じた。時間は少しずつ確実に過ぎていた。


しかし、しばらくして教職員の一人が持ち場を離れ、監視の陣形が崩れた。
僕にとっては奇跡のような瞬間だったが、金で支配している人間の意志なんてこの程度のものなのかもしれない。
僕は震える手を落ち着けて、屋上から垂れ幕を垂らした。


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僕は階段を猛ダッシュで下り、キャンパス中央へと向かった。
周囲の学生の数はいつも以上に多いように見えるが、まだ防波堤が決壊しそうな雰囲気はない。僕は法政大学が敷いているコーンと教職員の壁を突破した。突破時に教職員が何か言ったような気がしたが、もはやそんなことには構っていられなかった。
そして、僕は封鎖され、誰もいない正門前広場に立った。


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「菅谷君、キャンパスで花火を上げようよ」
デモよりも前、10.19で何をするか相談しているときに、増井君が言った。
「いいけれど、何で」
僕は増井君に聞いた。
「ノンセクトらしいじゃないか」
増井君は笑いながら言った。

確かにそれが僕たちっぽいような気がした。

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僕はリュックに潜めていた花火を取り出した。
特大の打ち上げ花火だ。僕はチャッカマンで火をつけようとした。しかし手の震えが、花火をつけるまでの時間を長引かせた。
職員が僕に迫ってきているのがわかった。火をつけるまで時間はわずかだ。僕は心を出来る限り落ち着かせて着火を急いだ。
しかし間に合わなかった。職員に囲まれて、花火を奪われてしまった。
僕は、花火をキャンパスに打ち上げることは出来なかった。



「菅谷、何やっているんだ」
職員が僕を睨んだ。
「あなたたちこそ何をやっているんですか」
僕は震える声で言った。


僕は恐らく初めて職員に対して敵対心をむき出しにして、にらみ合った。
以前僕は「職員さんも人間だから本当はおかしいと思っているはずだ」と言っていたが、この場においてはそんなことを言っていられない。今僕が対面している人間は、憎むべきシステムそのものだった。






教職員とにらみ合っている際に遠くで処分を狙われている文化連盟の武田君が職員に囲まれているのが見えた。
助けなければと武田君の近くへと走り、職員に詰め寄った。もはや躊躇は全くなかった。



すぐそばに防波堤となっているコーンが見えた。
コーンの向こうには僕たちを見る多くの人垣。僕たちを見る視線は、様々だった。嘲笑したり、興奮したり、心配したり、嫌悪だったり、多くの視線があった。ただ、このコーンと教職員の壁が僕たちと視線を分断しているのは明らかだった。


僕は防波堤のコーンを取って、職員に投げつけた。


壁を破壊したかった。
キャンパスを支配する教職員、防波堤、監視カメラ、この全てを取り除きたかった。ずっとずっと、大学にこんなものはいらなかった。僕たちが作ったのではない、何者かが勝手に恣意的に作った憎むべき壁だった。

何かが起きることを、何かが変化することを願って、僕はコーンを投げ続けた。




「菅谷、もうやめろ!」
知り合いの教員の声。彼は僕を押さえ込んだ。僕よりも強い力だった。
必死に撥ね退けようとするものの、がっしりと僕を押さえ込んだ力を抜けることはできなかった。僕は身動きを取れなくなった。


「離して下さい、今しかないんです。今僕がやらないと! お願いだから離してください」
僕は叫んだ。
「わかったからもうやめろ!」


僕は必死の力を込めて掻い潜ろうとした。
しかし、僕よりも強い力がそれを許さなかった。


「離してください」
「お願いです」
「頼むから」
「離せ!」
「離せ!!!」


悔しかった、悔しくて涙が出てきた。
どんなに抵抗しても、どんなに叫んでも、振り切ることのできない力が僕を離さなかった。



力が足りない。
これまでも何度か感じたことのある絶望だった。

何をしても、どんなに頑張っても、何一つ変えることができない。人を出来るだけ集めて抗議文を出しても、集会をしても、デモをしても、逮捕されるかもしれない行動に出ても、何も変えられない。
圧倒的な力に対する大きな絶望。僕は身動きすらとることができずに「離せ」「離せ」と声を荒げるだけで自分よりも強い力の決定に全てを支配されるしかなかった。






「菅谷、がんばれ!」
齋藤君の声だった。斉藤君の門前での演説の声が届いた。
斉藤君は学生の決起を拡声器で呼び続けていた。斉藤君は、この大学で変わることなくずっと最前線で一番過激なところで、戦い続けていた。

「菅谷!」
ゆとり全共闘や法政大学の仲間たちだった。防波堤を掻い潜り、教職員に殴られながらも、必死に戦っていた。デモや逮捕や分派を共に経験した大事な仲間たちだった。


封鎖されたキャンパスで、巨大な暴力を前にして、僕は一人ではなかった。




僕はこの日のことを一生忘れないと思う。
抑えられて動けなくなっている僕の目と耳に、仲間たちの声と姿だけが届いた。


僕の法政大学史53 2012年11

10月19日、法大デモの日が訪れた。


正門はいつも通り封鎖され、外堀公園には公安警察が待機し、キャンパス内では教職員が監視業務にあたっていた。


6年間、何度も何度も見てきた法政大学の光景だった。
僕はこの光景を、恐怖や不安や偽善から何度も何度も通り過ぎてきた。その間に、先輩が、同期の齋藤君が増井君が処分・逮捕され、他大学のノンセクトの後輩までも、23日間を留置所の中で過ごすこととなった。そしてこの光景に象徴される恐怖支配が、多くの僕の法政大学の友人を「大学の決定には逆らえない」「逆らったら自分の身があぶない」と絶望に陥れた。


6年間、6年間も僕はこの光景を見続けていた。


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(全て3・14法大弾圧を許さない法大生の会さんのブログ記事より)





昼休みまでの時間を僕は55年館のトイレの個室に篭っていた。


緊張からか震えが止まらなかった。
この後、僕は逮捕されるかもしれない、処分されるかもしれない。怒りと恐怖が心の中で混じった。そして、この大学でのたくさんの出来事が頭を過ぎった。携帯は置いて来たため、外の情報が全くわからない。時間がわからないことで、昼休みまでの時間が異様に長く感じた。


また緊張とともに、疲労も大きかった。
この数週間で、隣人に包丁を振るわれ、分派があり、そして法大への結集の呼びかけに動き回った。心配されたり、批判されたり、罵倒されたり、裏切られたりということが短期間に起こりすぎていた。これからの自分の行動をイメージしようとしたが、上手く頭が働かなかった。冷静な状態ではいられなかった。これまでの抗議活動や集会やデモとは、全く違う精神状態に置かれていた。

ただ、その中で今ここで外に出ては行けないということだけは頭の中にあった。職員に見つかったら全てが無に帰ってしまう可能性もある。僕はトイレの中で昼休みを告げるチャイムが鳴るのをグッと待った。これ以上ないほどに長い時間だった。同志たちのことを思い、みんなは無事なのかと心配が頭をよぎった。




しばらくして昼休みを告げるチャイムが鳴った。12時40分。
迷いは、もうなかった。僕は覚悟を決めて、決起を開始した。

僕の法政大学史52 2012年10

残された時間は、2週間。
法大デモへの決起をゆとり全共闘のメンバーに提起した。また、ゆとり全共闘の同志だけでなく、以前法大で共に学内規制に対して声をあげてくれる人たちにも、とにかくこの日だけは、法政大学に来てくれ、法政大学を見てくれと呼びかけた。


ゆとり全共闘では分派の影響、法政大学の友人ではこれまでとの動きの違いもあり(前述の通り僕はこれまでに文連・全学連の法大デモに参加したこともない)、支援や賛同に難色を示す人も確かにいた。でも中には、説明を尽くすことで積極的に支援してくれる人、共に決起してくれると約束してくれる人もいた。難しい情勢と難しい方針の中で一緒に立つのは、簡単なことではない。同志たちに心の底から感謝をした。
僕は、僕たちは、残された時間の中で出来る限りの準備を進めた。


このときに僕たちは「ノンセクトとしてノンセクトらしく戦おう」「各人でできる範囲でがんばろう」という方針を立てた。

細かな動き等はここでは避けるが、大きくはキャンパスを学生で圧倒すること、パワーバランスを変えることを目標とした。イメージとしては2006年6月15日、恐らくは今よりも法政大学が大学として機能していたころの風景を一瞬でも取り戻すことを目指した。しかし、弾圧の熟練度を高めている法政大学は、デモの際に人と障害物により、防波堤を築くようになっていた。
目的を達成するのは決して簡単なことではないことはわかっていた。

2006年6月15日の法政大学
2006年6月15日の法政大学



「各人でできる範囲でがんばろう」という方針であったが、僕個人としては逮捕までを想定に入れていた。というか、僕が逮捕されるのが運動的にはベストなのではないかと考えていた。文連でも全学連でもなく、しかも法政大学の学籍を有した法大生である僕が、怒り行動し、逮捕される。法政大学当局の「学外者による迷惑行為」という主張にヒビを入れられるし、またゆとり全共闘も多くの人の目にも触れる。僕が関わってきた、そして今後も継続して欲しい事柄、全てにおいてそれが一番良いように思えた。

しかし、この方針には批判と心配も集まった。
当然と言えば当然で、僕は今まで逮捕を想定にいれた行動や方針を取ることはなかった。10月19日は法政大学に行かないでくれ、と泣きながら訴えられることもあった。でも、誰に何と言われようが、この方針を貫徹するしかないと思っていた。心配の声に心が痛むことはあったが、迷いはなかった。もはやそれしか運動の継続性を勝ち取るための選択肢は見えなかった。

6年間に及ぶ学生生活で、僕は変化していた。
以前だったら、法大デモに参加しようと思わないし、自分が逮捕されてもいいとは絶対に思わなかった。僕は決起しない側の人間で、決起する人間との間には明確な太い線があった。でもいつからか、僕の僕個人の行動に対する判断基準において、自分の重要度は大きく下がっていた。もっと別の重要度の高い判断基準が生まれていた。その判断基準は、見えないし、不安定だし、自分はどんどん難しい状況に追い込まれていくかもしれなかった。その中でも、僕はその何かわからないものを信じようと思った。




残り少ない時間の中で、自分にできる限り、動き続けた。このままでは、これまでの全てが終ってしまうという強い危機感があった。なんとかして未来を切り開きたかった。

そして10月19日、法大デモの日を迎えた。

僕の法政大学史51 2012年9

10月上旬、僕らは完全な窮地に陥った。


4月の法大デモでの逮捕以降、あるいはそれ以前から張り詰めていた関係性の糸がついに切れた。もはやデモはおろか、キャンパスで集会や鍋を実施する体力もほぼ残っていなかった。キャンパスを横断した連帯で大学に共通する問題と向き合い、アクションをかけるという僕たちの行動を継続・拡大できる可能性はほぼ潰えた。


ある程度は覚悟していたこととはいえ、このときはさすがにショックがあった。
2009年に法政大学で飲酒規制に対する抗議を始めてからというもの、2010年に就活どうにかしろデモ、2011年にゆとり全共闘結成、過去最大規模となる就活ぶっこわせデモ、イベントやメディアへの登場と、内部的な困難や葛藤はいつもありながらも概ねは拡大に成功し続けていた。迷いながらも、戸惑いながらも、前に進み、何かを残していけているのではないかという感覚は常にあった。そして、それが少なからず方針への自信につながっていた。
しかし、それらの全てがこのときに手元からほとんどなくなってしまった。


これまでの経験から、絶望したりとかもう終わりだということは、思わなくなっていた。ただ、これからどうすればいいのか、その方針に迷った。
卒業までの時間は5ヶ月、ここから何かを残せるのか、何をすればいいのか、そもそも自分のしてきた行動は正しかったのか……。残された時間と可能性から、焦りが募った。




「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
窮地の中にいる僕に声をかけたのは増井君だった。法大では、文連・全学連主催による大規模なデモが4月と10月にあり、そのデモへの決起を僕に呼びかけた。


2007年に法政大学に入学し、増井君と出会ってから6年が経っていた。
2008年に共に文化連盟を残し僕だけが脱退したこと、2009年に暴処法弾圧の際に公安警察の取調べに応じてしまったこと、あるいは僕が運動を始め周囲からよく思われなくなったことなど、僕は増井君に会うのが感情的に難しい時期は確かにあった。そして、それは増井君にもあったのではないかと思う。
しかし増井君は、「君の行動はここが良くない」と批判し、「この点はよいと思う」と肯定し、「もっと決起しろ」と煽り続けるという態度を周囲の環境の変化に関係なく一貫して取り続けた。僕にとっては、文化連盟委員長としてキャンパスに立ち続け、そして全学連委員長になった斉藤君と同様に、学生生活をあるいは人生を「オルグ」し続ける重要な人物だった。


大学生活において、この二人に出会っていなければ、もしくは二人の存在を切り離せていれば、全く違う学生生活と人生があっただろうと確信を持って思う。デモとか、集会とか、弾圧とか、逮捕とか、救援とか、内ゲバとか、黒ヘルとか、白ヘルとか、分断とか、マルクス主義とか、面倒くさいあらゆることに関係のない場所で、楽しいキャンパスライフを送って、それなりの会社に勤めて、そこそこの幸せを掴めていた可能性だってある。

しかし、斉藤君の、増井君の、人生をかけた闘い以上に、美しいものも、惹きつけられるものも、正しさを感じるものも、大学の中にはなかった。そして恐らくはそれが全てだった。何も知らずに地方から東京に出てきて、「中核派が、過激派が大学にいる!」と好意的に興味を持ってしまったこと、そして同期にこの二人がいたことで僕の学生生活はある程度決定してしまった。



「菅谷君、法大デモに決起しようよ」
僕は法政大学という19歳から25歳までの多くの時間を過ごした場所のことを思った。ありとあらゆる感情をその場所で経験した。これまで感じたことがなかった大きな喜びも、大きな憎しみも、大きな後悔も、全てその場所の中にあった。
そして自分が今置かれている状況と、残された時間で何をすべきなのかを考えた。


その結果として、感情的にも、また今後の可能性としても、決起するのが最も良い選択肢であるように思えた。僕は学生生活で最初で最後の法大デモへの決起を決めた。
プロフィール

Author:自由空間
先輩が作ったサークルが廃墟になってしまったので、かなり個人的に使っています。

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